お別れのことば【川端正昭実行委員長】



岩野先生は、去る1月23日午後3時8分、家族にみとられ永遠の眠りにつかれました。75歳の人生でした。

 昨年の秋、ゴルフ好きの先生らしく「どうもゴルフの玉が飛ばなくなった」というようなことから体に変調を感じられ検査を受けられたところ、腹部に腫瘍が見つかりそれが癌であることが分かりました。先生もそのことを承知しておられたようです。
 当初から、皆に心配をかけまいと「このことは誰にも言うな」と厳命されました。奥様もそれを守っておられました。しかし、私が用事があって何回か電話しているうちに奥さんも隠しきれなくなりました。「実は主人は・・・、でも誰にも言わないで」となったわけであります。



 でも、聞いた以上私はいてもたってもおられず、私自身の定期健診を口実に病院にいきました。病院の廊下を歩いている痩せた先生の姿を見て私はわが目を疑いました。「ものが食べられへん・・・」という先生の言葉に、私はなんと答えてよいやら言葉が見つかりませんでした。「皆に心配をかけるし、他の患者さんに迷惑がかかるから・・・」と、こんな状況になっても先生の生真面目な性格は変わりませんでした。
 11月になって小康を得て一時退院されたのですが、体調がすぐれず再び入院となりました。おそらく癌は少しずつ進行していたのだと思います。その後、自宅近くの病院に転院され、余命数ヶ月と診断が下されました。その頃には先生の体調が思わしくないことが皆の知るところとなりましたが、皆の心配がかえって先生の負担になってはいけないと思い、私は心を鬼にして皆を引き止めました。

 毎年、正月の3日に先生のお宅に皆が集まります。当然、今年は中止になると思っておりました。しかし、奥さんから『主人は頑張って正月には外出許可をもらって自宅に帰ると言っています。是非お越しください。」と言われました。
 正月の3日、先生は車椅子に乗って帰ってこられました。数時間の帰宅でしたが、これからのレスリングのことを話し合い、かすれ声ではありましたが「よし、それでいこう!」と言われ、再び病院に戻られました。

 その後、私は数回病院に行きましたが、弱っていかれるのが目に見えてわかりました。なくなられる5日前に行ったとき、先生の顔の反応はほとんどありませんでした。ただ、私の手はしっかりと握ったままでありました。1月22日、呼吸が荒く、やや苦しそうに口で息をするようになり、翌23日午後3時に、大きく息をした後旅立たれたのであります。
 先生の几帳面で真面目な性格は最後まで崩れませんでした。体のあちらこちらが痛く、苦しかったはずなのに、一言も言われませんでした。病院の看護士さん達も「こんな我慢強い人は珍しい」と感心されました。普通、亡くなれた方は病院の裏口から送り出されるのですが、先生は玄関から大勢の病院関係者に見送られて、玄関から出て行かれたそうです。
 生前からの強い意志で「葬式は家族だけで質素におこなえ」とのことでしたので、密葬となりました。しかし、先生の生前のお付き合いから、これではすまないと思い、先生の遺志には反しますが、奥様のお許しを得て本日のお別れの会を催すこととなったのであります。



 1995年(昭和30年)、先生が大学4年生の時、レスリングの全日本選抜メンバーとしてアメリカに遠征されました。ニューヨークで行われた全米選手権ではバンタム級で見事金メダルを獲得されました。帰国の際には、烏丸通りを京都駅から今出川校舎までパレードをして凱旋したそうであります。アメリカでの試合にでて優勝したことは当時の市民に大きな勇気を与えたのでしょう。
 大学を卒業後、先生は同志社大学の教員として教育研究に携われるほか、レスリングの指導者としても力を発揮され、あの東京オリンピックでは全日本チームのコーチとして5個の金メダル獲得にも貢献されました。その後も国際審判員として多くの国際大会で笛を吹かれました。



 先生は常々学生に「レスリングだけでな社会でも役立つ人間になれ。4年間の学生生活はその後何十年続く人生の基礎をなるもの。苦しくても文武両道を目指せ」と指導されました。これこそ同志社スポーツが社会で大きな評価を得ている所以であり、知育、徳育、体育のバランスを目指す新島精神そのものであると思います。
 また、先生は同志社のみならず京都のレスリングの発展にも尽くされました。今では数多くの高校チャンピオンやオリンピック・世界選手権でのメダリストを輩出し全国的にも大きな評価を得ております。さらに、西日本学生レスリング連盟の理事長、会長として連盟の運営に力をそそがれた他、長岡京市体育協会の副会長をして地域の体育振興にも熱心に取り組まれました。そのスポーツに対する熱意、信念そして残された功績というものは我々が到底及ぶものではありません。

 私たちも先生の遺志を受け継ぎ、及ばずながらさらなる発展を期して努力したいと思います。どうか天国から見守るだけでなく、時には強い叱咤の声もかけてください。
 長い間ご指導いただきありがとうございました。

2月11日に催されました岩野悦真先生お別れ会での川端正昭実行委員長によるお別れのことばです。川端実行委員長の許しを得て掲載させていただきます。私もキーボードを打ちながら先生を思いだし涙があふれてきました。

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